伏見稲荷の名物・名産
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伏見のお稲荷さんと言えば連想されるのが「キツネ」。稲荷山には多くの「キツネ」の石像が祀られていますが、その昔、稲荷大神さまにお供えする傷み難い食べ物として「油揚げ」は良く使われたそうです。そうして、いつの頃からか「油揚げ」が「キツネ」の好物であるとなってきたともいわれております。その「キツネ」の好物である「油揚げ」を甘く煮ふくめ、すし飯を詰めた物を、その色と形から「いなり寿司」となりました。伏見稲荷界隈で扱われている「いなり寿司」は、全てと言ってよいほど形は三角形です。これは「キツネ」の顔や耳をイメージしているとも、稲荷山をイメージしているともいわれています。ここ、伏見稲荷は日本一「いなり寿司」が消費される本場中の本場!正月、三が日だけで2万5千個を越えるといわれています。お味の方はそれぞれの店が代々受け継がれてきたもので、甘さ加減や口ざわり、具材の種類など、お店の数だけ味わいがあると言えます。色々なお店の食べ歩き・味くらべをしてみるのもおもしろいかも知れませんね。
- 助六寿司の由来- 助六寿司(すけろくずし)とは「いなり寿司」と「巻き寿司」の入った組み合わせの物を意味しますが、果してその由来は?江戸時代の中期、京の都で男伊達の「万屋助六」が島原の遊女「揚巻(あげまき)」と心中。この話をもとに歌舞伎が上演されました。遊女の「揚巻」から「アゲ」と「マキ」→「イナリ」と「巻き」になり、「いなり寿司」と「巻き寿司」の入った組み合わせをその恋仲「助六」の名前がつき、歌舞伎観劇には欠かせないものになったそうです。伏見稲荷参拝、稲荷山散策にも欠かせない一品です!
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昔ながら味も材料そのままに白味噌・胡麻・砂糖を小麦粉に混ぜ1枚ずつ丁寧に手焼きし、 白味噌のあっさりした甘味と煎り胡麻が香ばしさを引き立て、噛むほどに香りと味わい豊かに 広がります。少し厚みもあり、歯ごたえ十分に味わいがあります。
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稲荷の甘酒の多くは、米麹から作った発酵飲料、昔から栄養飲料として親しまれてきました。江戸時代では一番死亡率が高かったのが夏。夏ばて防止の栄養ドリンクとして飲まれてきたのです。ビタミン、ミネラルが豊富で、最近ではお米由来の活性ペプチドや必須アミノ酸といった人間にとって不可欠な物質を多く含んでいます(日本版のヨーグルトです)。さてさて、甘酒の歴史は平安時代から江戸時代にかけて進化し、江戸時代にはお酒の席の前に、甘酒を飲んで悪酔いを防止させるのは「武士の作法」と言われていました。そして農耕民族である日本人は、神々を農耕と深い繋がりをもって崇めていました。ですから農作物から作るお酒は社事には欠かすことの出来ないものだったのです。日本書紀には「天甜酒」が登場します。この酒は、アルコール分が少なく甘酸っぱくてドロリとしたお酒であったようです。これが甘酒のルーツです。
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代表的なコテコテ関西の飲料水!その昔、ラムネに並ぶ人気飲料水。川の水をまだ飲料水にしていた頃、飲みやすく栄養と衛生を考え、関西庶民が飲み始めたのが「冷やしあめ」のルーツと言われてますねん(ちなみに、温かいのはあめ湯と言います。)。選別したあめ素材を長時間煮詰めたもの(原液)を水で溶かして生姜汁を馴染ませ、キンキンに冷やして飲むのが「冷やしあめ」の飲み方ドス…。
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ちょっと不思議なのが稲荷のわらびもち…。よく見かけるのは「四角い」型にはめたわらびもち、でも稲荷のわらびもちはみな型にはめない「卵の形」のわらびもち!稲荷の職人が言い合わせた訳ではないらしい。「角がたたないように…」との願いからだろうか?
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商売繁盛の神様で有名なお稲荷さんですが、元々は五穀豊穣(米など)の神様であり、その五穀を食べるすずめを退治するために、すずめの焼き鳥が出来ました。皆さんも是非、退治して下さい。
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稲荷の地は平安末期までは栄えておりましたが、保元の乱以後、草深い(草深いから稲荷の周辺を深草と言います)地になり野鳥の宝庫となり、その名残と言われています。
「夕されば野辺の秋風身にしみてうずらなくなり深草の里」 藤原俊成 記 -
昔は京都で新鮮な魚を手に入れる事が難しかった為、日本海の若狭で捕れた鯖を一塩しました、すると都へ付く頃に丁度程よい塩加減の鯖になったと言われ、現在でも若狭までのある区間の道を鯖街道と言い、京都のお祭りでは今でも鯖寿しが喜ばれます。(竹の皮で包んでありますよ)
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にしんを甘く焚いた(寒露煮)もので半身を使っており京都が発祥の地と言われています。
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に関西は商人の町で、腹を割って話をしましょうと言う意味でうなぎは腹開き、関東は武家社会で腹開きは切腹につながると言われ背開きだそうです。さらに関西では関東の様に最初に蒸す事無く、生から焼き始めます。
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伏見稲荷に来たら「すずめの焼鳥」・「いなり寿司」とともに有名なのが「きつねうどん・そば」。地方のよって製法・具材に違いはあれど、この名称の源流はやはり伏見稲荷大社といっても過言ではないでしょう。ここ伏見稲荷参道でも、各店、代々受け継がれた出汁・製法で皆様をお待ちしております。「きつねうどんの食べくらべ」に何度か足を運んでみては…。
- 「きつね」と「たぬき」- さて、ここ伏見稲荷界隈はその名の通り「きつねうどん」の名前の由来となったところです!今では全国的(世界的?)に有名な「きつねうどん」ですが、地方によってその具材は少し違うようです。そこで稲荷参道の商店主さんに会議を開いていただきました!
ウチでは「きつね」は甘く煮た油揚げを三角に切ったものをのせたら「きつね」で麺はうどん・そば選択できるけど・・・ そうそう!でも関西でもそれは京都だけやで!大阪では「きつね」は甘く煮た油揚げにうどん、そばになると「たぬき」って言うやん! そうやなぁ、京都では「たぬき」は細く刻んだ甘くない油揚げに青ネギ、それを「あんかけ」にしたモンやけど・・・ 「あんかけ」ちゅうのはうどんダシを水溶き片栗でといでとろみを付けたモンをかけることやけど、「きつね」「たぬき」ともにうどんとそば、どちらもするけどな 関東におる知人は、「きつね」は「油揚げ入りうどん・そば」のことで「たぬき」は「天カス入りうどん・そば」やて言うとったなぁ・・・ 「天カス入り」言うたらここら京都では「ハイカラ」言うがな…大阪では良く各席に天カスが置いてあるから、そんなメニューもあらへんで(笑) その知人は「天カス」は聞こえが悪いから「揚げ玉」って言うてたわ(笑) 関西では「きつね」を「しのだ」と呼ぶこともあるな? あぁ、あれは昔、大阪の篠田いうところに狐がぎょうさんいたとか・・云々の話からきとるんやろ?どちらにしても「狐=稲荷=油揚げ」からきてるみたいやけど 以前、福井の方でも「志乃田」と言う呼び名で「きつねうどん」を出してるところがあったなぁ 北陸地方に行ったら「きつね」・「たぬき」と呼ぶより、「いなりうどん」・「いなりそば」と呼ぶみたいやで! これこそ「稲荷=狐」を反映してるなぁ(笑) 調べてみると、だいたい名古屋辺りから東は「きつね」は油揚げにうどん・そば、「たぬき」は天カスになってくるみたいや。関西は京都とか一部を除いて「きつね」は油揚げ・うどん、「たぬき」はそば・・・ これは近畿圏のみで、さらに西、九州に行くと関東式に戻ってくるから不思議やなぁ 関西ではこれ以外にも、油揚げを細く刻んだうどん「きざみ」言うのもあるしなぁ ところで「きつね」と「たぬき」ではどっちが歴史が古いんや? それなら任して!「きつね」は明治時代に大阪で「松葉屋」いう店が油揚げをのせてうどんを作ったのが始まりらしいで!「たぬき」は江戸末期に、江戸の町で始まったいわれてる。天ぷらから種(中身)を抜いた「たねぬき」から「たぬき」になったとか 「たぬき」は「きつね」を化かしたからともいわれてるで!京都では「ダシ」を「あんかけ」に化かし、大阪では「うどん」を「そば」化かし、関東では「油揚げ」を「揚げ玉」に・・っていう説もあるで! まぁ、どちらにせよ、「きつね」・「たぬき」と、うどんやそばを呼び合う日本人の楽しい食文化、自然を愛する国民性とユーモアの豊かさ!これがホンマに狐と狸の肉入りなら何の面白みもない話や!こういった歴史も味と一緒に、こらからも代々引き継いでいかなあかんなぁ・・・ -
春
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旬筍
柔らかい盛り土の中に出来た、白子の筍は、採りたては、そのまま、お造りにも出来ると言うほど。日本一の美味です。普通は、ぬか、米のとぎ汁でゆがいて、わか竹(ワカメと筍ですましのおつゆ)、鰹のだしで甘辛く煮たり、木の芽あえ(白味噌と木の芽であえたもの) 夏
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旬黒豆の枝豆 「紫頭巾」の名で、ここ10年ほど前から、黒豆を枝豆の時点で出荷するようになって、今や、夏の人気商品です。枝豆の皮をむくと、紫の薄皮に包まれた大粒の豆が、ビールのおつまみには欠かせません。 賀茂茄子 大きな丸茄子です。輪切りで田楽に、また、たて切りにして、煮ても味は格別。 山科茄子 普通の茄子に比べると、同じ面積あたりの収穫料は何分の一しか採れない為、ついつい作るのは、敬遠されがちでしたが、栄養価の高さで、ひそかな人気、味もおいしいですよ。 満願寺唐辛子 ピーマンのような肉質で、太くて長い唐辛子。焼いて、細長くさいて、鰹醤油で。 伏見唐辛子 長い唐辛子で、柔らかく、甘い、焼いたり、「じゃこ」と甘辛く煮たり。 秋
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旬松茸 丹波でとれる丹波松茸は、なんと言っても、日本一の風味、みずみずしさ。焼き松茸に、土瓶蒸し、松茸ご飯、ちょっと贅沢には、てんぷら、すき焼きにして頂くと最高。 栗 栗は栗でも、丹波栗、風味、おいしさは格別。 冬
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旬海老芋 「小芋の王様」。冷めてもしまらないし、むちっとして、甘く、味は最高。お雑煮に、棒ダラと煮て、芋棒に。 壬生菜 丸葉の葉っぱの水菜で、お揚げと甘辛く煮たり、あっさりと、塩漬けで。 水菜 ギザギザの葉っぱの水菜は、お揚げと甘辛くたいたり、お鍋(水だき)に入れたり、最近はそのままぶつ切りで、サラダで食べるのが若い人の流行に。
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「伏見人形」は、伏見稲荷大社門前でおよそ400年にも及ぶ長きにわたり作り続けられてきた日本最古の土人形と言われ、全国の土人形にこの流れを汲まないものはないと言われる程、強い影響を与えた土人形の元祖であります。この人形を作る土は、稲荷山の埴土を採ったもので、これを神棚に置くこと、或いは田にまくことは、稲荷大神さまの近くにいることになり、その御加護にあずかれるという庶民信仰と結びつき、稲荷みやげの代表的なものとなっていきました。その作品は、往時の風俗や伝説などを表現したものが殆どで、ユーモアに富んだ面白さ、あたたかい懐かしさ、素朴さをしみじみ感じさせてくれます。代表的なものには、「饅頭喰い人形」があります。そのいわれは、ある人が幼児に「お父さんとお母さんとどちらが大切か。」と尋ねたところ、この幼児は手に持っていた饅頭を2つに割って「おじさん、これどちらがおいしいか。」と即座に問い返したという賢い子供をモデルにしています。そこから、この人形を部屋に飾っておくと、子供が賢くなる、また、賢い子供が授かりますようにという子宝祈願に用いられています。また「柚でんぼ」というのは、柚子のかたちをした素焼の蓋物で、昔は子供達のママゴト遊びに、或いは食物を入れる容器に使われていました。宮尾登美子原作の「序の舞」では、画家の主人公が初午詣の帰りにこの伏見人形を買ってもらい、それを写生してはじめて先生から褒められるシーンが登場します。
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稲荷大神様のお使いとされる「きつね」をモチーフにした、置物、土鈴、お面、ストラップ、キーホルダー、ぬいぐるみ、せんべい、まんじゅう等たくさんの商品が、各店にならんでおります。ぜひ、あなたのお気に入りの「きつね」を見つけて下さい。
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ここ伏見稲荷界隈は全国でも稀な神具専門店が軒を連ねる地域です!参道を歩くと飲食店・土産物店の中に神棚や神具を並べている店が点々とあることに気付かれるでしょう。さて、神さまにお供えする神器類の配置をよく問い合わせいただきます。三方(さんぽう)のとじ目を手前にし、奥に新酒入(みきいれ)、手前に高杯(たかはい/たかつき)、三方の真ん中に水玉(みずたま)を置くのが一般的です。神酒入にはお酒(清酒)を、水玉には初水を、高杯は向かって右側に洗米、左に塩を供えます。初水と洗米は毎日、お酒と塩は一日、十五日おきに供えるのが通常です。お酒は傷みやすいのでその日に下げられます。何事も難しく考えず、先ずは初水だけでも毎日供えることからはじめてみてもいいですね!
- 分け神璽と社- さて、ここ伏見稲荷にこれほどの神具店が増えたのには幾つかの理由があるでしょうが、1つに伏見稲荷大社の「ご分社・ご分霊」制が関係していると言えます。伏見稲荷大社では稲荷大神さまの「分け神璽(わけみたま)」を授かることができます伏見稲荷大社のご分社は3万社とも3万5千社とも言われ、ご家庭・会社なども含めると数え切れない分け神璽が授かられていることでしょう。そうして授かった神璽を祀るための社を製造・販売とするところが一つ二つと増えていったのではないでしょうか…? 社は(ヤシロ)は「ヤ・シロ(屋代)」の義で神域、聖なる場所を示すもので、石でも、岩でも木でも、依代(よりしろ)であれば何でもよかったのですが、後世、社殿が建てられ、その依代を中で祀るようになったといわれています。ここ稲荷大社の「お山信仰」、奈良の三輪山の大神神社などが神社の古体を示す良い例でしょう。 さて、社の屋根の両端に大きく交差している木組みを千木(ちぎ)と言います。いくつかの様式はありますが、この千木の先端の切り口は垂直に切ってあるのが男神、水平なのが女神を表すといわれます。ちなみに伊勢神宮、内宮は水平に外宮は垂直に切られています。また、同じように屋根に置かれた丸い木を鰹魚木(かつおぎ)といい、男神は奇数、女神は偶数置かれます。ちなみに内宮は10本、外宮は9本置かれています。伏見稲荷大社、本殿より置くには「両宮社」という社殿があります。これは呼んで字の如く、内宮と外宮の様式が混在した社殿です。
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きつね煎餅は参拝客にとって直会や参拝の記念品として、また御利益の御裾分けのお土産として喜ばれています。 小面(13㎝)と大面(18㎝)があり、大面は丁度 子供さんの顔ぐらいの大きさになります。
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鈴の形で割ると、中からおみくじが出てくる。 おみくじの種類は160種類ほど ありますが、中には当たり付きのおみくじが有り記念品と交換出来る
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初午参り(稲荷大神が三ヶ峰へ降臨された日を祝う)のことを昔から幸福が授かる ので『福参り』と呼ばれ、御参拝の記念品や福を分けるお土産として喜ばれています。
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お正月・祭事などに神前に供えた餅を「鏡餅」といいますが、では、なぜ重ねた餅を鏡餅と呼ぶようになったのでしょうか。 ひとつには、丸い餅の形が昔の銅鏡に似ていることから。古来から、鏡は神様が宿るところとされていました。また、鏡餅の「鏡」は「鑑みる(かんがみる)」。つまり良い手本や規範に照らして考えるという意味の言葉にあやかり、「かんがみもち」とよぶ音がしだいに変化して鏡餅になったのだとも言われています。 さらに、鏡餅の丸い形は家庭円満を表し、重ねた姿には1年をめでたく重ねるという意味もあるそうです。 鏡餅の起源は、元禄年間の書に、丸餅と角餅を重ねた絵が残されております。では、「鏡餅の飾り」にはどのような意味があるのか?餅の上にのせる橙(だいだい)は「木から落ちずに大きく実が育つことにあやかって、代々家が大きく栄えるように」と願った縁起物です。 御幣(ごへい)・四手(しで)は四方に大きく手を広げ、繁盛するように。紅白の赤い色は魔除けの意味があります。餅の下に敷く裏白(うらじろ=シダ)は「古い葉とともに新しい葉がしだいに伸びてくるので、久しく栄えわたる」という縁起を担いでいるものです。
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京都における「やきもの」の歴史は古く、5世紀後半、雄略天皇の御代に宇治と伏見の陶工に茶器を作らせたとの記録があります。 その後、清閑寺の鷹峯、深草などで土器や瓦が焼かれたとされていますが、室町時代に「明」から伝えられた「交ち法」による色絵陶器に始まった説が有力です。その頃からの茶の湯に流行にともない桃山期から江戸初期にかけて粟田五条坂、音羽などで次々と窯煙が昇り始め、京都の諸窯一大発展期を迎えました。
その中で17世紀半ば、明歴年間野々村仁清は優雅で華麗な純和風の色絵陶器を完成し、「京焼」を確かなものにするとともに、日本の「やきもの」史上に輝かしい功績を残すことになりました。「京焼」希代の巨匠として知られる仁清については諸説がありますが、生まれは現在の京都府北桑田郡美山町で、本名・清右衛門で、京に出て茶人・金森未和に茶器を作ること、色絵を着けることを勧められ、これを見事に完成させた功で仁和寺の門跡から「仁」の字を与えられ「仁清」となったとされています。
仁清以降も「京焼」は、尾形乾山、京焼磁器をはじめた奥田頼川、磁器に独自の境地を開いた青木木米、文人趣味を陶器に表現した仁阿弥道八ら数多くの名工を生み出し、常に新しい美を追求しつつ伝統的な「京焼」の発展をもたらした。